JR福知山線脱線事故

JR福知山線脱線事故が起こった。
昔調査に出るときによく利用した路線。いまも通り過ぎる路線は、朝はかなりぎゅうぎゅう。


たくさん報道されましたが、ふと気になったのは、オーバーランに対して、どうして口々に「変だと思った」にもかかわらず、乗客はその電車に乗り続けたのだろうか。


茶化しているのではない。


学友たちに聞いてみたところ、「時間がなかったのだろう」とか「誰もそんなこと考えるわけじゃないか」と一笑された。


しかしことはそういう問題なのだろうか。そう頭を抱えてしまう。


命を預けているという感情が希薄だったのはなにも企業だけではないと、私はよく押しつぶされながら思うことがあるからだ。
満員電車の周りの人間は「人」ではない。蒸し暑さや、否応なく押し付けられるからだの温もりは、ただの物だ。
そうでなければ、そう思わなければとてもじゃないけれど乗れない。
突然人に抱きかかえられるとことを私たちは良しとしない。しかし毎日の混雑には無神経にはなれるのだ。


電車に乗った瞬間、私は無神経に命を捨てたりするわけではない。
次の予定を考える。なにかしらの目的があるからこそ、その地点に立つことができる。
けどなにかしらの擦り切れたものや、考えないものや預けたことさえ忘れることを容易にできてもしまうものなのだ。


もちろん、崩れかけの山に登り、危険だと「思わないほうがおかしい」という同等のことを言っているわけではない。
そうではない。この事件は企業や機械に対しての信頼を預けていたのだから。


乗客が悪いとも言いたいわけでもない。
そうではない。そうではないのだが、この事件は企業や機械に対するわれわれの立ち居地を物語っている気がするからだ。だから降りればよかったといった話はあまりにもむなしすぎる。そんなことが言いたいわけではない


企業や機械に命がないと大声で言う。それに対してなんら「人権」を付与することはできない。備わったものでも、剥奪されたものでもない。物に対しての志向は、なにもない冷たい無に近い。
しかしそれが「逆に」、付与しないという事実が、企業や機械を遠き者に仕立て上げているだけでなく、無神経にさえなれてしまう。


こうも言える。言えるのだろうか?


乗客が運び出される貨物になるとき、それは物言わぬ荷物なのだろうか。


確かにそれは正しいのかもしれない。


われわれは物言わぬ荷物になるのだろうか。



しかし、そうではない。瞬時に否定をしたい。
この事件の犠牲者たちの声はそう訴えかけてくるではないか。
報道を見ていると、さまざまな可能性があることを示唆している。
さまざまな可能性があることが人を苦しめるのであろうし、悩ませるのだろうが、そんなつまらないことは言いたくない。言いたくはないのだが、可能性の収縮や、思考を固定することがこうした事件を起こしたのだとしたら、あんまりだ。


別のところにも書いたのですが、どうしても気になって仕方がないので、ここにも転載してみました。