橘木俊詣編著 斎藤貴男 苅谷剛彦 佐藤俊樹著 『封印される不平等』

二月に読んだ本でおもしろかったもの。
前半が四者の座談会でこれがすごく面白い。立場が違うとほんと見えてるものが違うものですね。後半は橘木氏の論文で、これはちょっとまぶたが重くなる。


で、これを取り上げたのも、今日(05/3/10)、国会中継をせんべいかじりながらみておりましたら、教育については「相撲部屋」「ちゃんこ鍋」にせよと表現をされる議員さんがおりました。出自や親の年収に関係なく、相撲部屋にはいれば練習し放題、なべ食い放題の扱いにする。もちろん、一度試合に出れば、体の大きさは関係ない。けどそれ以前のチャンスはちゃんとととのえましょうというものでした。


酷く当たり前に聞こえます。ですが、現状のみんな平等の上にある「勝ち組」「負け組」というものが(この本のおびにもかいておりますが)、勝ち組も本当に出自や自分の力で手に入れたものか、あるいは逆に、負け組も「運がなかった」せいなのか、負け組の人間も運がなかったではなく、またがんばろうと思えるのだろうか、といった問題はまだまだ問題にされてよいと思います。


『封印される不平等』は、日本の平等社会が崩壊したと指摘します。というのも、比較的緩やかであった日本のシステムは、「機会の平等」と「経済効率」が共存した珍しいシステムであったんですね。
しかし、経済的、社会的要因を背景に「平等」というものよりも経済的「効率」を重んじるようになる。そうした社会の裏側において、緩やかに貧富の差が拡大していった結果、いまでは、教育や職業を選択することさえ息苦しいと感じる。
階層という社会に壁があることから目を背け、自身が何を享受しているかについても判断停止する。
「機会の平等」は日本において軽んじられる。選びようのない機会は、教育において、文化階層の固定化を演出することになった。日本の所得分配の不平等化、ないし貧富の格差拡大にほぼ確実に発生していることを直視しなければならない。
といった、本です。読んでてあまり楽しくはなりませんが、がっくりくるものでもありません。


苅谷氏が言うような、「選択の責任は自分でとるべき」というのもなんだか疑問だな。そもそもそこに選択・・・たとえば「たくさん選択肢があるよー」ということを否応なく選択させられて、プレッシャーを感じている人や、私は「○○になるー」とそっせんしてあまり将来楽ではないチョイスをした人も、たとえばそれが小中学の時点なら、それを本人に還元してもいいのかな。


うーん*1


「不平等をみたくない、目をそむけようとしている、さわりたくない、といった意識が国民の底辺にあることを強調しておこう。世の中に不平等は存在しているようであるが、それを意図的に黙殺するか、あるいは本格的に見ようとしない雰囲気がある。それは経済的な成功者、あるいは社会の上層階級にいる人に多く見られる現象である。一方、経済的な不成功者や非上層階級からは関心のなさが見られる。あるいは、そのようなことを考える時間的な余裕もないほど、その人たちは日々の勤労と生活に追われているともいえる。」(pp.4-5)

封印される不平等

封印される不平等

*1:私にはこんな感じ ×橘木俊詣 △斎藤貴男 △苅谷剛彦 ◎佐藤俊樹