村上春樹 『国境の南、太陽の西』


このまえ村上春樹の『ノルウェイの森』を貸してた子が「私は感動しませんでしたー」と言って、軽くショックを受けました。
そうか、今の子は村上春樹で「感動しよう」とするのかと思うと頭がくらくらしました。


なにも、「こう読め、ああ読め」と言いたいわけではありません。
ただ、感動できるできないといという地点に、ともかく、着地「しよう」としてにこにこ笑う子に「あぁ、そうですか」と返事をするしかありませんでした。≠私ならわかるんだ、というのではなくて、なにか着地、固定、理解というものを感じてしまったのです。化学反応の停止といえばいいのでしょうか・・・


私はあまり小説を読むほうではありませんが、小説を読んで素晴らしいと思うのは、大まかに考えて、だいたい二点あります。


ひとつめは、いままで日常にそれが存在しながらも「存在していない」、つまり誰にも表現されなかった、感情や言葉の流れをきちんと組み立て上げられる力です。
もうひとつは、それが表現するところの世界が持つ、耐久度です。
「人生が、シェイクスピアの注解だ」なんてことは思いませんが、ともかく・・・ちゃんとした作品は私が読むという主体的能動的でありながら、いつのまにか受身的になり回路に組み込まれ、吐き出されるときには別のところに届けてくれるものだと考えております。


「おお朝日がまぶしいぜ」「今日から一日一善」みたいなことを呟かせる。「おはよう」や「ありがとう」「ただいま」という言葉が愛おしく感じるのは、もちろん小説だけではありませんが、新たな様相をそこに感じる自分を「体感」することができたからだと思います。


それは、決して最近書かれたなどの時間を無視して。あるいは昔読んだ本が、新たな語りかけを生むのは、文字自体は変わらないのですから、その文字が作り出す世界(回路)を受容するときの態度に「よって」いるのでしょう。


なんの話でしたか・・・それを「着地点」を想定した読み方というのは、もちろんないわけではありません。絵を観にいっても「おお、ピカソさま」みたいな感情はあるものです。たぶんそれは、その絵に対する回路を持っていないからだと・・・というのは話がいり込みますので端折るとして。なにか違和感を感じてしまうのは、一番美味しいところを逸している気がするからでしょうか。

でも嫌ですねこれは。結局これも読み方の作法のようなものを、なにか念頭においてるのですから。


なんだか愚痴みたいになりましたね。


では好きな作品を上げておきましょう。


私が好きな村上作品は『国境の南、太陽の西』という、へにゃへにゃした作品です。
けれど、言葉の端々に、無常というか、哀愁というか心をクッとさせる文脈使いは、ノルウェイよりも好きです。
・・・あぁ、でも先ほど書いた「小説うんぬん」でいえば、最近の作品をあげますが。
ただ、こうした時期の作品は、一言で「感動した! 村上さんすごーいわ!」というようなものとは違う、なにか解釈し切れてない不具合さと違和感が、「生きてきた時代」と重なっていて私は好きです。


作品の始まりは、一人っ子が、当時独特な立場にいたことを語るところからはじまります。ませた少年は、そうした感情を「島本さん」という同級生と共有できた体験を語る。
しかし、魅力的で早熟な彼女とは中学生のころに別々になってしまう。たった数駅しか離れていないけれど。けれど、往々にしてそうあるように、関係は離れていく。思春期の主人公には母親の目や彼女から向けられる好意に居心地の悪さを感じてしまった。
でも、それはすごく間違いであった、そう主人公は回想する。妙な確信を彼は語る。
とても美しく切ない表現で、彼はその思い出を表現する。


僕は島本さんと会わなくなってしまってからも、彼女のことをいつも懐かしく思い出しつづけていた。思春期という混乱に満ちた切ない期間を通じて、僕は何度もその温かい記憶によって励まされ、癒されることになった。そして僕は長いあいだ、彼女に対して僕の心の中の特別な部分をあけていたように思う。まるでレストランのいちばん奥の静かな席に、そっと予約済みの札を立てておくように、僕はその部分だけを彼女のために残しておいたのだ。島本さんと会うことはもう二度とあるまいと思っていたにもかかわらず。(p.25)

記憶はキッチンに似ていると私は考えております。さまざまな材料を収穫し、それをあるときは料理して食べますし、あるときは凍結させておきます。
あるときはそ記憶を料理して誰かに差し出すこともしましょう。
そんなキッチンの前に、常連客としてやってくる友達や恋人に私は楽しい話を差し出し、コーヒーをいれたりするわけです。また彼らの持ち込んだものを一緒に吟味したりすることでしょう。
でも、そんな客もいつかは帰ってしまう。
もちろん現在、寄り添っている人のための、特別な席もあるかもしれません。
でも「すみません。そこは予約席なんです」そう言いたくなるような、特別な人の名残のようなものがある。
そこにはなにを差し出すことも、なにを料理することもできない。
けれど、しばしば自分でそこに座って、なにかを飲んでみると、違ったように感じる。


こうした、ちょっとしょっぱいと言いますか、あまり大声ではいえないような感情をそっと置いていってくれたのは、この時代の村上作品の鋭いところだと思います。



ちょっと今日は書きすぎましたね。ストレスたまってるのかな。



国境の南、太陽の西 (講談社文庫)

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