廣松渉 『新哲学入門』

この小さな新書が秘めている容積はすごい。本には内容を反映した、文の容積のような物がある。新書というものが、たいいていにおいてあなどれないものであれ、この本の容積はさすが廣松さん、岩波だ、と唸るものがあります。


もちろん、すらすら読める人もいるんだろうなと頭の隅で思いながら、なにも知らずに読むとちょっと骨が折れる本かもしれない。入門とあるから、ひょいひょいっと読めるのかというとちょっと違う。正直なところ、廣松さんの想定する入門者がいったいどれだけ時代を反映していたかは疑問だが、私はこういう本をしっかり書いてくれたことに、すごく喜んだことがある。


哲学入門書の仕事の多くが、前座的に哲学の資質のようなものを語り、網羅的に思想を書き付けることが多くみられる。鼻息荒く「哲学入門」とかの本や講義をとって、なんだ難しいなぁと思ったりしませんでしたか。中島義道が上手く書いていますが、そんな仕事をする人を「哲学者」ではなく「哲学学者」とよんだりする。
では、『新哲学入門』も哲学を並べてるだけかといえばそうではなくて、西洋哲学者がいかにして考え取り組んだかを「いやー実はね、認識とか存在とかって自然科学だけじゃないんですよ」といったかたちで、きちきちと丁寧に検証していく。「認識する」というひとつの人間の当たり前すぎる作用が、いかに奥深いか、哲学が切り開く深度を哲学者の名前と思索を提示する方法ではないありかたで、指し示していく。ですからなかなか読むのに苦労する。けれど、とても難しく誠実でなければならない仕事を、見事なまでに仕上げているので、とても勉強になります。


ここで地下水脈として流れるのは、どのような人間の営みであれ、私たちが生活の中で日に当てない、「あたりまえ」をいかに哲学者は考え言語化していったか、あるいはしていくのかという認識、存在、実践についての哲学へのまなざし、つまり哲学者が過剰な責任感を感じながら挑戦していった難問への検証です。なるほど、確かに入門だなぁと思うけれど、実に歯ごたえのある一冊です。
それはともかく、文章もとっても良くて、私のようなへなちょこな文章なんかじゃ表現し得ない、文章の存在感のような物があります。なんだか大事な話になったけど、良い仕事ってその痕跡が必ず目をこらすと立ち上がっていくものですよね。すばらしい。
ほんとに1994年に亡くなられたことがとても惜しまれますね。これからって感じがするのに・・・廣松さんの仕事は大著がいくつもありますが、こうした新書までも素晴らしい精度で残しておられます。

新哲学入門 (岩波新書)

新哲学入門 (岩波新書)

 陣内秀信 『東京の空間人類学』

うおー、忙しいシーズン到来である。私なんかまだ暇な方だとはわかってるけれど、曜日感覚が早々と薄れつつあります。徹夜できないとわかっていても仕方がないと徹夜してしまい、頭がふらふらしている中で神戸の元町商店街を歩くと、街頭コンサートがあちこちでやっている。弦楽四重奏から、テルミンを使用しているグループまで。あんまり「おおっ」と言う演奏はなかったけれど、商店街の中、一定の距離を空けて断続的に聞えてくる音楽に、「神戸ってすげー」と感心してしまいました。こういう地域づくりは、パリのメトロのようには上手くいかないだろうけれど、とっても楽しい。


ただ、こうしたイベントなどが先行している神戸って観光地としては「あまり」良い場所というイメージはない。異人館にせよ南京街にせよどれもこれも中途半端にあるだけであまり面白くなくて、「えーこれだけかよ」と思ったことがしばしばありました。


けれど神戸に魅力がないわけじゃない。神戸に住んでいるお友達と一緒に歩くと神戸はとても面白かった。


例えば・・・、神戸は阪急・阪神という私鉄と、それに挟まれる形でJRという旧国鉄が六甲山と瀬戸内の間に走っている。可笑しいのは、だいたいこの電車に乗る人の棲み分けがあるというのだ。もちろん、今のご時世だから大差ないと言えば大差はないんだけれど、芦屋なんかは特にそれが顕著で、鉄道の沿線で建物のクラスが大きく違う。
美術館なんかもいろいろ見て回ると、その設置されている場所と訪れる人の様子はわりと違う。場所と展示内容の関連を残しながら、来館者の着ている服が違うんですよね。服の着こなしや、地区の区画や「ある」ものが神戸はみえてくる。そんな話を聞きながら町を歩くとめちゃくちゃ楽しかった。
こうした階層的な差のお話はとっても嫌われたり誤解されやすいけれど、町ってやっぱり表情がどこにもあるようで楽しい。
階層問題はただある物だし立場や見方で様子を変えるものですから深入りはやめましょう。町は楽しいというのが重要なのですから。


さて、学問はいろいろあって、どれが一番楽しいなんてアホな話は好きじゃないけれど、羨ましいと思う学問はこうした人類学系列がピカいち。文化人類学も都市人類学もどれも著作や論文がめちゃおもしろい。その中で手に入りやすくて、「うおっ、めっちゃおもろい」と言えば陣内秀信『東京の空間人類学』でしょう。町を面白いと感じるのは、ただ受け身的にやってくるのではなく、「読む」という実践をしてみると、そのおもしろさがわかってくる。そういう学びを教えてくれた本です。


なにが楽しいかと言えばやっぱり人間ほど楽しいものはないんですよね。特にその日常や生活の実践なんてものは、やっぱりじっくり腰を据えてフィールドにはいりこまないとわからないものが多いんじゃないかな。人はそんなに簡単に住む場所を決めるわけじゃない。その人にとって都合の良い場所で「選択」という形で自分をそこに定めるわけです。それはなにも定住という形で表現されるものじゃなくて、私たちはひとまずは「家」を持つという様式を採用しているという意味で、なによりその様式の多様性が確認できるという文脈で、人間はおもろいよね。

東京の空間人類学 (ちくま学芸文庫)

東京の空間人類学 (ちくま学芸文庫)

J・デリダ追悼 

http://www.cnn.co.jp/showbiz/CNN200410100007.html

最近の論文は分野関係なく「脱構築」という言葉が見られる。この前研究会の時に読んでた論文もやっぱり「脱構築」って言葉があって「ではこの脱構築について・・・」という話から、この言葉の魅力をひしひしと感じていたところだった。

脱構築は立場によって「ああそれはこういうこっちゃ」という身体的でシンプルなものから「複雑難解語」としての論理的な脱構築まで、良い意味で多くの人をインスパイアしてきた。もちろんこの言葉だけというわけではないが、デリダという人は、既存の知性が停滞しかけることへの恐れに対峙してくれていたように思う。
彼の仕事をまとめるなんて不可能だが(いったい何冊本を書いたんだ)、私がいつも思うのはサン=テグジュペリが言うように「生命に意味を与えるものは、また死にも意味を与える」*1ということだ。これからもこういった仕事が求められていると考えてますが・・・惜しまれますね。


最近はハバーマスとの共著を斜め読みしたから元気なんだと思ったけれど、考えたら邦訳なんだしね。まだまだ元気だろうと思っていただけに驚きました。亡くなられたか・・・。でも、サイードが亡くなったときも「尊敬できる」と思える人の喪失にがっくりしたけど、今回は同じように尊敬している人であて「ついにか」という気分だ。・・・つぎはレヴィ=ストロースとか。いやそういうのは不謹慎ですね*2

差延とかロゴスとか目がくらくらしながら朝を迎えたあの日々へ。

*1:サン=デグジュペリ著 堀口大學訳『人間の土地』新潮社 1955 224頁

*2:まだ生きておられると思うのですが。ああっ、しかし私のアイドルたちが!!

オイストラフ演奏 チャイコフスキーヴァイオリンコンチェルト

つい最近「北京ヴァイオリン」という映画を見た。このごろ大陸ものの映画がこれでもかとどしどしはいってきていて、そういうのが私はあまり好きではないんだけど、DVDのパッケージが可愛らしくて観てしまった。
映画の内容は色がある映画で、もちろん派手という意味ではなく、ある種の平たさを感じる落ち着いた色だけれど、色の深さというものを感じて「おおっ」と唸ってしまった。

例えば・・・シャガールの絵画って宗教宗教していてくどく感じることもあるけれど、眺めているといろいろ考えてしまう不思議な魅力があって机の前にポストカードをいている。深く深くどこまでも沈み込むような世界そのものが横たわっているみたい。
色彩の深さってなんとも貧相な形容だけど、実際の色という表現ではあまりに言葉足らずなものにふと夢をみるかのようにいろいろ想像する。不可解な色ばかりではなく、そして絵の具をこすりつけたように平たいが、じっとみているといろんなものが浮かび上がってくる。

こういう深みはどこかで様々なものと通底しているようで、映画を観ていてもそれと似たものを感じた。派手さもなく、ヴァイオリニストを目指す若者が父親や教師たちと織りなす物語は、淡々としながただ淡々とあるだけではないあり方で、しっかりとしたものを心に訴えかけられるようだった。いい映画でした。


それで、なんだかこれ懐かしいよなと思ったのが、映画の中で象徴的に演奏されたチャイコフスキーのヴァイオリンコンチェルト。


初めてこの曲を聴いたとき「この世の中にこんなに美しいものがあるのか」と一晩中聞いていた。カセットテープを何度も巻き戻し、繰り返し確認するように聞いて聴き続けたせいでテープが切れてしまったほど。
中学生のころだったけれど、テスト前でイライラしてるときになにを間違えたか父親のテープを再生してしまって初めて聞いたけど、学校ではみんな歌謡曲・・・というかポップスの全盛期だったから、いまさらクラシックなんて恥ずかしくて言えなかったな。


オイストラフチャイコフスキーは、あまりけばけばしてなくて、ハイフェッツなんかと比べたらかなり地味な印象なんだけれど、どんどん音楽が表現していくものが届いている位置が深い深い。ある瞬間に、オケのスケールが小さく聞えてしまう。
一楽章半ばのソロとカデンツァのピアニッシモからフォルテッシモの音符に対する幅の深さの明晰さは、野太い音なのに繊細さを感じる。彼の魅力はそういう底がわからないしっかりとした安定感と、豊穣さなんだろうなぁ。
音楽が生き生きと立ち上がってくるのは、全体がどの部分も淀みがなく生命力に満ちている。G線のうねりをあげるような音色は恰幅があり懐が深い。高音域での音の移動は哀愁を漂わせつつも、どこか嫌みのない鋭い気品を感じる。それはたぶん想像力の奥行きだろうか。


映画を観てあらためてCDを引っ張り出して聞いてみた。確かに昔のように一喜一憂できないけれど、椅子の上で静かに安心して音楽に浸れた。




 *1

*1:修正:10/18 ASIN間違ってました・・・

川喜田二郎 『発想法』



中学生か高校生のころに手にとって「おおっ、これはおもしろい」と思った本はなかなかいつの年になって読み返してもおもしろい。あの頃はなにかを「系統だてて読む」とか「分節だけ読む」とかしないで左から右までガガガガーと丸々読んだものです。
基本的に暇だからそんな力業みたいなのができたのでしょうね。


そんなふうにちゃんこ鍋のような読み方をしていていると「さっぱりわかんなーい」という本と「おおっこれは」という本がある。前者の場合でも投げ出さないでとりあえず読み切るなんてとても今ではできません。もちろんそういう本も強く印象に残り、「大人になってわかった」というものもあるのですが、後者のように「すっげー」といった本が大人になってなお何度も発見を繰り返せる本もたくさんある。
たぶん様々な経験をしたとか、たの本を読んだということで既存の情報よりもっとたくさんの見方を持つことができるというのがセオリーなんだろうけど、蓄積される経験は数量的に連関性を持つよりか、その経験の深さやもちようやありかたが互いに引きつけあって響きあう。こういう意味で、若いころにあまりあれこれ考えないでアホっぽくたくさんの本を「丸飲み」しておくと、「おおっなんかどっかで見たな」という可能性が大きくなるんじゃないかな。
いまある経験はてもとにあるけど、それを数値的だけではないあり方に耳を澄ますことって時間も必要だと思う。
ともかく、『発想法』はいまや古典だし名著ってみんな言うくらいだからなに書いても仕方がないけど、今読んでもいくらでもお勉強になる。


KJ法って整理法と勘違いしてる人が多いけど、実際やってみるとすごーく運動になる。運動といっても、頭というか体がただノートを眺めるよりも動かされる感触があって、手元にあるデータを振り分けていると「ぐいっ」と移動する、引き込まれる瞬間がある。論文とか本とかでもそういう「ぐいっ」感覚はあるものだけど、データを扱いながら「ぐいっ」と引き込まれたものは後から見通してなんとも味があるなあと思える。自分で書いちゃ仕方がないんだけど、ある種のデータって本当に味があるもので、その味を引き出す一つのあり方がKJ法なんだろうなと私は考えてる。


文章もその人の鋭い閃きや抑揚や簡単がある、つまりはとっても思いこみの激しい確信がある文章は読んでいてひきこまれる。変わってどうだろうか、とか、あまり裏打ちされてないものを扱うものを読んでいても退屈だ。さすが「発想法」というだけあって、この小さな新書はいつでも隅々までみずみずしくっておもしろい。でもこのごろ読んでない人もけっこういるんだよなぁ・・・
グルーピングとか、整理法ではなくて体で集めた情報をカード化し、再度体で選り分けていく作業工程そのものと、それから展開される自分自身の経験知の流れをただ体感していくと「おおっ」という閃きが生まれる瞬間があるんだよね、と言ってもこのごろ誰も見向きもしてくれない。なんだい。


発想法―創造性開発のために (中公新書 (136))

発想法―創造性開発のために (中公新書 (136))

柴田元幸 『ナイン・インタビューズ 柴田元幸と9人の作家たち』



村上春樹の「うなぎ」ってなんですかと聞かれた。村上春樹が「うなぎ」について語っているのは、柴田元幸さんの「ナイン・インタビューズ」のなの話。


この本は柴田元幸が関わっているアメリカの作家たちについてのインタビューで、インタビューの模様は録音さCDになってついてる。お勉強にももってこいだよね。興味深いのはポール・オースターと9・11とかリチャード・パワーズ村上春樹とか。日本じゃ若い人を含めて一部のファン以外ではあまり肯定的な話を聞かない村上だけど、アメリカの作家には随分読まれてるのかな・・・

柴田 日本の文化で何か興味のある面は?特定のアーティストは?
パワーズ インパクトを受けたアーティスト、ですか?ムラカミですね。
柴田 ハルキ・ムラカミですか?
パワーズ ええ。彼の作品のいくつかに、ある種の共通性を感じるんです・・・・・・彼の作品もやはり、頭と心のパズルに思えます。構造的に見て、作品が模索しているプロセスに作品自体が参加しているような本を、彼も作ろうとしていると思う。構造自体がテーマを反映するような構造を探ってるんです。(柴田元幸『ナイン・インタビューズ 柴田元幸と9人の作家たち』、アルク、2004、161頁


村上春樹はペーパーバックよりもやっぱり日本語のほうが面白いと思うんだけど(ねじまき鳥もThe wind-up birdだしなぁ・・・)、それはともかくとして村上の評価も凄い。ともかく、こういう人間ほど日本じゃ知られないというのも辛いものだ(イチローにしても、「イチローアメリカの」という語りでいかにMLBのなかであるとか、そういうのは問題じゃないわけだし)。



で、巻末にある柴田×村上のところで「うなぎ」の話が出てくる。
村上は物語というものは「三者協議」じゃないといけないとした上で、自分と、読者と「うなぎなるもの」が必要だと言ってる。作者と読者の間に「ちょいと聞いてみましょうか」というような存在が必要なんだって。コロッケについて語る方がある場合においては、その人が自信を語るよりも、よりその人がわかることがある。村上は「一つの立体的な風景を共有する言葉ではなく、風景を共有することが一番大事」と言ってる。そういうオルターエゴの有効性お洒落な言い方として「うなぎ」。これっていろんな人がいろんな言い方で表現していることだと思う。考えてみるに、こういう本当にしっておかないといけないことって言うのは、ある種の共通性を持っていつの時代も語られるんだね。
そういやレヴィ=ストロースも『神話の構造』という論文の中で、神話の中じゃなんでもおきちゃうんだよね、これ認めよう、と言った上で物語を多言語で翻訳することでの誤差はあるけれど、神話は翻訳しても伝わるべきものは万国共通としてた。ういんどあっぷばーっどって話なんだね。



この本はどれもいわゆるシャープですこし皮肉混じりのアメリカ作家の生声が聞けるとってもチャレンジな本だし(まぁそんな売れないだろうな)、装丁もしっかりしてるし写真などにもこだわりがある力作。何判も刷ることもないだろうから見かけたら手に取ってみると面白いよ。


BILL EVANS 「Waltz for Debby」

部屋にはいると本棚でも机でもなくて大きなステレオがある。私は友達に、いくらオーディオが好きでも部屋も小さくちゃこんな鳴らせないでしょと言う。友達も「だから、抱えながら寝てるんだ」と言う。


そんな時代があった。いつかお金持ちになって部屋にこだわって、聞ききれるはずもないレコードの数々を壁に備え付けた専用の棚にいれてにやにやしながら眺めたいね。ワーグナーを骨まで揺れるくらいビシビシ響かせて聞いてみたい。コンサートにいけばいいじゃないかとも思っても、そうではなくある時ある種の条件が重なってできた音楽を聴いてみたいと強く思うのだ。


朝までそんな夢だとか将来の話しながらBILL EVANSの「Waltz for Debby」を小さなボリュームで聴いた。部屋は狭く壁も薄い。エヴァンスの音楽や大きなステレオ、友達と一緒に将来のことを話すときはちょっとの不安とそれでもなにか開けていくという感覚がある。夜は深くいまの時代のようにどこか騒がしさもなく、ひっそりと親密で温もりのあるイメージだけはいまでも忘れられない。


表題でもあるWaltz for Debbyでエヴァンスの和音は、すこしばかりの哀愁を漂わせる。この音楽を口ずさむたびに「ま、そういうこともあるよ」という肯定的だけど寂しい気持ちが胸に溢れる。そういうこともある、十分だよ、という気分になるのだ。Waltz for Debbyは、自分が理解する音楽と感じている音楽の間がとても深く、両者を揺れ動きながら様々な地点で楽しみを感じているのだと教えてくれた。


Waltz for Debby

Waltz for Debby

いまはCDで安く買えるんですね。