須賀敦子 『遠い朝の本たち』

祝!冬休み、なので書斎を整理していると、温もりを感じるシックな装丁の一冊がでてきました。どうやら、1998年から一度も開かれずに本棚に放り込まれていたのでしょう。あのころは忙しかったしなぁ、と思いながら開いてみるとすごく面白く一気に読んでしまいました。


これは、須賀敦子さんの遺著で、彼女が読んできた本についての思い出を紹介したエッセーです。

面白いのは、本のエッセーであるばかりか、戦前生まれの、いわば知的エリートたちがどのような読書生活をしていたのかや、あるいは、当時の女学校といったものの「機能」についても参考になるでしょう。この時代に洋書について語る中学生や、本を尋ねるたびに持ってきてくれる叔母さんがいる、というのはなかなかそれはそれで興味深いものがあります。


と、まぁこんな斜め見することもなく、開いていくととても丁寧で肌触りの良い文章にうっとりさせられます。たとえば、亡き父ゆずりの読書好き、という話の最後はこのような文章です。

幼いころは、父が本を買ってくれて、それを読み、成長してからは父の読んだ本をつぎつぎと読まされて、私は、しらずしらずのうちに読むことを覚えた。最近になって、私が翻訳や文章を発表するようになり、父を知っていた人たちは、口をそろえて、お父さんが生きておられたら、どんなに喜ばれたろう、という。しかし、父におしえられたのは、文章を書いて、人にどういわれるかではなくて、文章というものは、きちんと書くべきものだから、そのように勉強しなければならないということだったように、私には思える。そして、文学好きの長女を、自分の思いどおりに育てようとした父と、どうしても自分の手で、自分なりの道を切り開きたかった私との、どちらもが逃げられなかったあの灼けるような確執に、私たちはつらい思いをした。いま、私は、本を読むということについて、父にながい手紙を書いてみたい。そして、なによりも、父からの返事が、ほしい。(須賀敦子 『遠い朝の本たち』pp,38-39)


引用の作法としてはあまりに長い。けれど、どこを切ってもだめな感じがして、全部抜き出してみました。

句読点の切れ味は、少なくとも「メールの句読点をスペース」で代用するようなものではないことも勉強になるだろう。感情を押し殺したような静かな単語だけを選んでいるからか、「灼ける」という言葉が重い。静けさは遜色がなくて、ぐっと、その思いを表現しているみたい。とても美しい。


本の読み方もずいぶん「思い出すこと」がおおかった。つまり、いまは大量の本を大量に消化するような読み方をしているけれど、そうではなく、かみしめるように、あるいは横道にそれあれこれ考えながら呼んでいた時期があった。このごろ、そんな読み方をした本は、とても、少ない。

本当は、本は一冊一冊どのようなものであれ心がこもったものだろう。容易に批判したり、矛盾をさらけ出そうとすることも、また読み方のひとつかもしれない。

ただ古来より本を大切にし、その影響力を認めてきた(だからこその焚書であるのでしょう)人々が、率先して消費財としての文章と本にしてきたツケはかならずやってくることになるでしょう。


単語や、概念というものは、われわれの生活や、生きる中で作り上げていく、そんな話はレヴィ=ストロースの本から、私は教わった。こうした物事は、知らぬ間に継承されていくのであるが、なにも、言葉や概念をただ完全に保管していくのではなく、その時々の言葉に敏感であることとは、今のように、読み捨てるようなものであっていいのかと悩んでしまうのだ。

丁寧で、背骨があり、「空間」なく文章がしっかり物語っている本に対して、すっかり
親愛をもって向かい合ってほしい。そういうのは、たぶんとても「時間」がかかることで、大変なことだろうけれど。
私に子供はいませんが、こういう読み方をしてほしいなぁ、そんなことを思う。

遠い朝の本たち

遠い朝の本たち