阿部謹也『日本社会で生きるということ』

このごろ、M・フーコーの『狂気の歴史』というバカ長い本を読んでいる。こういう本は頭からぜんぶ読むんじゃなくて、美味しいところだけをちょこちょこ読むのが上手いやり方だけど、そうもいかなくなった。とっても忙しい。


そういえば、映画についても似たようなことをしていた。映画についていろいろ話す場があった頃、私は適当に映画雑誌を読んで、まるで映画を見たかのような話をしていた。映画を頭から最後まで観て、数的優位(もちろん私も映画はたくさん観たけどさ)を持っていなければ語る資格がないというのが日本のルールである。だから、適当に話を合わせるためにそんなことをしていたけれど、これってあんまり日本じゃ褒められない。


でもまぁ、どこの世界も似たり寄ったりであって、特に「『頭を使う』が頭を使わない」集団にその傾向はみられるのだから、適当に解説書を読んで、「あー観た観た(読んだ読んだ)」と言っておくのが常套手段なのであった。


この程度のはったりで通用するのだから「ま、問題ないよね」なんて甘く考えていたら、フーコーみたいな本を頭から精読する羽目になってすごくがっくし。


「『頭を使う』が頭を使わない」集団というのは、例えば「〜について考えよ」と聞かれてとりあえず本を開くような連中のことである。私はそうした反応をバカにしているのではないけれど、彼らにとって知的ソースがそこにあると考えてること「そのもの」についてはいつもなんだかなぁという気持ちになる。


と言いつつ、私の怠慢さの話をそらすような論法はやめておきましょう。


このごろ「みんな一緒」が嫌いな人が増えた。そういえば、この前、秋の園遊会「強制でないことが望ましい」と某えらい人(尊敬してたのになぁ)は、おしかりを受けて大笑いをした。「みんな一緒」と強制は違うから、というひどく当たり前なことの齟齬はどこで起きたのだろうか?


国旗国歌については、私は「みんな立って歌えばいいじゃないか」と考えている。こんなことを言うから、先輩にお前は「いつもそうだ(彼は小学生のころから拒否し座り続けた筋金入り)」とおしかりを受けるわけだけど、日本はそんな国だしいいじゃんというのが「いけない」らしい。


国旗国歌の重要な点とは、たぶん「拒否権」があるか否かの問題であろうと思う。自由があるかどうかの問題か、それは難しい部分だと思うけれど、少なくとも相対的にすべての人の意見を認めるべきだと言うならば、俄然「私のこと流れ主義」は立場を得るわけです。
私が嫌なのは、そういった相対的に考えろと言うこと「そのもの」がもはや強迫的であるということですから、この打開案としてはま「みんな歌っていればそのうち受け入れられるんじゃないですか」という、なえなえした物語である。


こうした日本人独特の感覚である「世間」というものについて、なるほどと思いながら読めるのが、阿部謹也さんの『日本社会で生きるということ』という本である。講演集だから、電車の中でぺらぺらめくりながら、いろいろ考えることができる見事な仕事です。


私は「社会」という言葉ではなく「世間」という「わかってそうで、よく考えたらわからん」言葉に目をつけられた仕事に、賛否両論あれどなるほどと強く頷く。日本ではまだ社会と世間という言葉が分離してないようで、社会と言いながら世間を語り、世間と言いながら社会を語ることがしばしば見られる。
この言葉を定義して使え、と言いたいわけではなく、そういう国だという認識が必要だと考える。


イラクでの香田さんが亡くなられた事件と、その延長にあったネットでの論議を見ていると、やっぱり日本にはまだまだ世間というものが根強く残っていることを確認したし、それは島田紳助氏の話でもまた、納得した。けれど、島田氏の事件とその議論を観察していると、どうも世間というものを飲み込めない世代もまた生まれつつあるのかなという気がしてきた。*1


たぶん、世代格差との混同と階層差がこれを生んでいるというのが有力な気がするけれど、「世間」という感覚そのものをどう言語化し、形作るのかが難しい時代なのかもしれない。齟齬と言いますか・・・


というわけで、今でもすごく面白く読めます。すごいなぁ。

日本社会で生きるということ (朝日文庫)

日本社会で生きるということ (朝日文庫)

*1:紹介はするが、コメントしないってのはダメーと怒られちゃった。香田さんの事件においては、国全体がコンセンサスを打ち出しているのだから、ようはその延長にあった彼自身、親のコメントと、それに対する社会と言いながら、世間関係で語ろうとする議論があったこと。島田さんも自分の世間と社会の判断見誤ったことに起因してるんじゃないかな。でもま、ホットな話題には一息、あんまり関わらない方が火傷しなくて良いか・・・ほっとこー